わすれっぽいから書く

あらゆるものを追いかけている

それと、それの、それのこと

 

まずはこばやしのこと。

それはそれは驚いた。実に12年もわたしの軸だった。前もここで書いたかもしれないけど、以前友だちが、「サッカー好きな青年が、サッカーをテレビで見て、サッカーの練習のために早起きして、サッカーのために食事内容も考えていたら、その青年にとっての宗教がサッカーである」と、授業で習ったと話してくれた。腑に落ちた。以来、こばやしゆたかさんはわたしにとっての宗教であるという認識で生きていた。そのために予定を調整して、生活ほとんどの照準を合わせていた。月額とか年額で入っている色々も、もう要らないんだなあ。急に軸のない人間になった。軸がないとしぬ。そもそも休日に予定がないとしぬタイプなので、早急に軸を据えなければ体にも心にもよくないと思った。今すぐ手のつけられるもので、手間と金と時間のかかる壮大なプロジェクトを、空いた背骨に注入しなくては、立てないと思った。

で、とりあえず注入した。手の届くところにボロボロの家屋があったので、これの修繕を目標にしてみる(DIY未経験)。近所にDIY大先生がいたので頼った。まずは除草剤を撒いた。虫も去ってほしいのでそういうのも撒いた。まだ玄関の片づけしかしていない。道のりは遠い。物理的にも遠いし、なんか土地と家屋の権利関係も絡まっていて、そこも解して整理せねばならない。面倒だ。でも今は面倒を引き受けたい。

 

もう落ち着きました。わたしに声をかけてくれた人たちも、きっともう忘れたよね。心配半分、興味半分、センセーショナルで、瞬く間に拡散されて、早くも、もう、過去になったんだろうなと思います。わたしの中ではまだ過去になっていません。落ち着きました、と書いたけど、どうだろう、見ないふりをしているのかもしれないし、直視はしたものの、飲み込めたかどうかははっきりしない。

わたしの結論は、擁護なのでここに書けません(書いてる)。やっぱりねーこんなに大好きな人、嫌いにならないよ。専門の医療を頼ってほしいなと思うし、どうか今ひとりじゃありませんように、ご飯を食べて眠れていますようにと思います。被害者がいるのに、こんなこと書くの最低ですね。

自分の中央に何もないように感じます。広々と見渡す限りの虚無で、めちゃくちゃ更地なので逆に何でもできるな・・・という気持ちでもあります。オンライン占い師もいよいよ始めようかな。資格試験とかもどうなのかな?ってちょっと触れてみた。こばやしの件が出る前は友人たちとMV撮影をして遊んでいました。進行中の曲もあったんだけど、こばやしの件でびっくりして飛んじゃった。あれも進めたいなー。絵コンテ描こう。あ、わたし年始に自分のこと占ったりしてない?しなかったんだっけ。やってたら4月に塔出てたなこれ。

このブログはどうしようかな。浮気先のグループも解散したし。笑

 

 

それから浮気相手のこと。

そう、解散しました。笑。浮気先のグループ。え~~まだわたし結婚してないのに・・・(怖い)。曲が好きで歌詞が好きで、コンセプトが大好きなグループだったけど、採算度外視で運営されてたと思うし、そんなねえ、ボランティアでやるような話でもないんで、解散には賛成でした。音源が出ないよーと嘆いておりましたが、無事に全曲入りのCDが出ました! はーありがたい。これは本当にありがたい。ほんんんとうに曲が大好きなので、好きなときに好きなだけ聴けるようになって心から嬉しいです。今も聴いています。朝も夜もずっと聴いています。

行きたいと思ったらすべて行ったし、行かなかったのは行けなかった日だけなので、悔いはないです。手を伸ばせるものに全部手を伸ばして、しっかり愛したな!という実感、満足があります。

 

でもA氏のことを今後どうやって愛でればいいんだろうという・・・。不安ではないですが、何でしょう・・・これは不安なのかな・・・露出がないので、暗中模索と言いますか・・・ツイッターで生存が確認できればいいか・・・いいか・・・? いいか・・・それしかないもんな。A氏大丈夫かな。わたしが心配することではないんですけど。きっとグループ活動が、彼にとってのまあまあの骨だったろうなと思うので、彼もまた背骨を失っていやしないかと。柔らかな人っぽいからなあ、ぐにゃっとなってないといいな。元気でいておくれよ。

わたしってどっちに対しても元気を願うんですね。草。そりゃそうか。

夏に再開するらしい配信に望みをかけるしかないのか。配信あんまり好きじゃなかったけど、その主な原因は「コメントを全て読む」でして。しかしここ数週間でちょっと改善の兆しがあったので、望みを持てなくもない。ん~~~・・・。

 

 

いつだったか、「ゴールはどこなの?」と訊かれたことがありました。あの時ゴールって何を指すかわからなかったし、訊いた人も、好きイコール恋愛、その先は結婚という認識だったからこそ訊いたと思う。あの時わたしは苦し紛れに「どっちが先に死ぬとかですか」と答えて、いやこれ絶対回答になってない・・・と思ったけれども。でも今こうなってみて、ゴールというのはやっぱり穏やかな死だったんじゃないかと思います(お、重い・・・)。「終わらないこと」が幸せなので、その先にある誰しも避けられない「死」だけが、「終わり」としては丸いんじゃないかと、しかも長生きで、老衰で、穏やかに、みたいなことが理想のゴールだったんじゃないかと・・・、、、いや、、、だめだ・・・変に暗い・・・。いや・・・だってまさかこんな風に急に・・・。

でも、軸や背骨や、目先の光は失ったものの、もらったものがいっぱい手の中にあって、世の人が思うほど「何にも残らない」ではない、むしろ全然ちがう、めいっぱいの経験はめいっぱいの経験のまま、わたしを育てていると思います。過去も今も。好きなもの以外の話(暮らしの話とか笑)が出来る友人たち、どこにでも行けるフッ軽の精神、道すがら拾った他のジャンル、真似して買った靴、楽しかった時間、それらが確かにわたしを作っている。歩いていけるなあと思います、作ってもらった肉体があるので。生きていける確信がある。ただ、コンパスがなくなっちゃっただけで。